筆記

感じたこと、考えたこと

ひとと誠実に付き合うということ

 果たして、その人を前にした瞬間に、出しうるの力の全てで楽しませることが、本当に相手にとって誠実といえるだろうか?

 

 

 人間関係において、受け身だという人は少なくないと思う。向こうから話しかけてくれる人と仲良くなったり、気にかけてくれる人を好きになったり。そうやって、「相手に選ばれる」ことで人間関係を構築しようとする。

 私自身も、長いことそういう生き方をしてきた。仲良くしてくれる人と仲良くする。そういう生き方の前提には、「私なんか」と仲良くしてくれるなんてありがたい。という一種の自己卑下が、心に蔓延していて、「私が人を選ぶなんておこがましい」「選ばれないことは辛いから、誰かを選ぶこともすべきじゃない」、そういう意識があった。

 

 けれど、「私なんか」という意識には、大きな不誠実があると、最近の私は感じている。

 受け身の人間関係を築いているとき、こちらから関わる相手を選ぶことはできない。だから、多少「合わないな」とか、「こういうところ苦手だな」と思うことがあっても、黙って耐えることになる。そして相手は、こちらの心に少しずつ澱みが溜まっていくことを知らずに、無邪気な愛情を向け続ける。

 それでこちらが耐え続けられるのならいざ知らず、多くの場合は、どこかで限界がくる。「めんどうだな」と感じて距離を取ったり、愛想良くするだけして、音沙汰をなくしたり。

 こんな人付き合いの、どこに誠実さがあるだろう?どこに、愛が、あるっていうんだろう。

 

 「私が関わりたいから」関わる、その意識が抜け落ちた関係なんて、ひどく虚しい。もちろん逆もしかり。「私ばっかり相手を好き」なんて、考えるだけで悲しい。否、もしかしたらそう感じることが怖いから、私はいつも受け身でいたのかもしれなかった。そうして相手には、自分が一番感じたくない痛みを、相手を避けることによって与えている。

 

 

 誠実にひとと付き合うとはなんだろう。

 まず、私がどうしたいのか。それを決めることが必要なんじゃないか。

 相手との関係を、どうしたいか考える。仕事さえ円滑にできればいいのか、ちょっとプライベートな話もしたいのか、もっと踏み込んで、休日も出かけるような関係になりたいのか。

 それを自分の心に問いかけて、それから相手に、「私はあなたとこういう付き合いをしたいけれど、あなたはどう?」と、問いかけてみる。

 相手が応じてくれればうれしいし、ダメだった時には、残念だなあと落ち込む勇気を持つ。また立ち直れるだけの強さを持つ。

 そうして、お互いが思い合う関係にしていく。

 

 「私はこうなりたい」、それがなかったら、どんなに愛想良くして喜ばれたとしても、相手に対して誠実じゃない。いわゆる八方美人。そう取られたっておかしくはないし、いつか誰かが傷つく。

 

 だから、私は大切な人を大切にするために、いつも自分の心のゆく先を、問いかけていたいと思った。