アニメ「BANANA FISH」を見て泣いた/ネタバレあり
「ブロマンス作品 おすすめ」なんて検索すると必ずと言って良いほど名前が上がる『BANANA FISH』。並はずれた美貌と知能でストリートギャングのボスとして名を馳せるアッシュと、日本からやってきた心優しく平凡な青年英二。ひょんなことから出会った二人は、「バナナフィッシュ」という言葉の謎を追ううちに、壮大な運命に巻き込まれていく。
この漫画の原作が連載されていたのは1980年代。それが2018年になってアニメ化されると決まったとき、SNSが異様なほど盛り上がっていたのを覚えている。随分熱狂的なファンがいるんだなあと思っていたけれど、今ならその理由がわかる。この作品はあまりにも心に強烈な感情を残して去っていくから。
「ブロマンス好きとして、いつか見なければ」そう思っていたのに、見るのが随分と遅くなってしまった。だって展開があまりにも鬱だと聞いていたから。絶対に心に傷を負うとわかっているのに見るのが怖くて、でも生きているうちに見ないわけにはいかない!とようやく視聴を決意した。そして今、わたしの心にはぽっかりと穴が空いている。
主人公のアッシュは、あまりの才覚と美貌を持っているが故に、常に周囲の思惑や欲望に晒されている。育ての親であるマフィアのボス・ゴルツィネは、幼いアッシュを買い、性的玩具として扱ってきた。
作中にはアッシュがレイプされるシーンが何度か出てきて、それが心を抉る。なぜってその現実はあまりにも辛いのに、アッシュがどこか諦めた顔で笑うからだ。幼い頃に体を売られたアッシュは、男娼だと罵られ続け、どこかで自分はそういう存在なのだと受け入れてしまっている。
何かを与えられれば、常に殺しやセックスなどの見返りを要求される。殺しの才能も確かであるが故に、その手は血で汚れ、自らを汚れた存在だと傷付ける。
そんな人生を送ってきたアッシュにとって、はじめて純粋な優しさを向けてくれたのが英二だった。
英二は雰囲気は気弱そうでありながらも、心の芯は強い。そして深いやさしさを持っている。擦れたところのない純粋な心は次第にアッシュの心の壁を溶かし、かけがえのない存在になっていく。アッシュは強く凛とした人間だけれど、そこに見え隠れする傷と弱さを、英二は誰よりも理解していたように思う。その孤独に寄り添い、そばにいると英二は決意していた。
アニメの大半は戦闘シーンで、人の死があちこちに転がっているのに、アッシュと英二が二人きりで過ごしているシーンだけは、嘘みたいに甘く優しい。繰り返されるくだらない冗談。英二のくったくのない優しさと、アッシュの英二にだけ見せる笑顔。
アッシュの人生はあまりにも悲しくて、でもだからこそ英二との時間がどれだけ特別かと言うことが伝わってくる。
英二はアッシュと違って、敵と戦う力を持たない。だからこそ二人がそばにいることは、英二にとっては危険であって、アッシュにとっては弱点を作ることだった。それをわかっていながら、そばにいようとしたことは、二人の弱さだったのだろうか?
全ての戦いを終えた後、英二が日本へ帰国する日がやってくる。英二のためを思って、見送りには行かないという選択をしたアッシュだったけれど、英二からの手紙を読んで、空港へと会いに走る。その道中でアッシュは、刺されて命を落としてしまうのだった。どれだけ過酷な状況でも生き延びてきたアッシュだったけれど、英二を思って走っていたあのときは、ただの少年に戻ってしまっていたんだろう。
日本に帰って、アッシュの死を知らされる英二を思う。嘆き、悲しみ、後悔するだろうか。決して生涯忘れることのできない、アッシュとともに過ごした時間を、英二は一生抱えて生きていくのだろう。
後日談を描いた「光の庭」という作品もあるとのことなので、いずれ読んでみようと思う。
英二の手紙を読みながら迎えたアッシュの最期は、他のどんな死に方よりも幸福だったのかもしれない。誰よりも自分を想ってくれた友の言葉とともに、死ぬことができたのだから。
願うことならふたりが死んだ後、どこか遠くで再開できることを願っている。
映画「サンセット・サンライズ」ネタバレあり
その土地に根を下ろして暮らすとはどういうことなのだろう?いわゆる「都会」に住んでいると、近隣の人々との交流は少ない。たとえ引っ越したとしてもお隣さんに挨拶するくらいで、その街から自分が消えても、大した影響はないかもしれない。
けれど地方に土着して住む人々は違う。誰がどこに住んでいて、どんな関係性で、どんな人物かを知っている。「その土地に住んでいる」ということが、より強く認識されているように思われる。
映画「サンセット・サンライズ」は地方移住をテーマにしたヒューマンコメディだ。
主演は菅田将暉。舞台は新型コロナウイルスの流行でパンデミックに陥った2020年だ。三陸の町役場で働く百香(井上真央)は、ある日空き家問題の担当部署に配属される。手始めにと貸しに出したのは、百香がかつて住んでいた4LDKの一軒家。家賃月6万円という破格の値段で賃貸サイトにアップロードすると、即座に東京に住む青年・晋作(菅田将暉)から「住みたい」と申し出がある。しかしコロナに怯える宇田濱町の人々は、外部の人間に対して強い警戒心を抱いていた。そこで2週間の自主隔離期間を設けることを条件に、晋作を住まわせることに。大の釣り好きの晋作は、リモートワークをこなしながらお気楽な三陸暮らしをスタートする。百香や町の人々とも、持ち前の明るさで次第に打ち解けていくのだが……。
監督は岸善幸、脚本は宮藤官九郎。クドカン作品とだけあって、あらゆるところでクスリと笑わせられる。けれど扱っているテーマは、コロナ、空き家問題、地方移住、東日本大震災など幅広い。
わたしがこの映画で印象に残っているのは、晋作が山へきのこ狩りに出かけるワンシーン。彼はひょんなことから山の中で百香と二人きりになる。ひらけた土地に出て、陽光が柔らかく差し込んで美しい。百香は静かに語り出す。きのこ狩りにおいて、自分の漁場は家族にも教えないものだと。しかし彼女は父親にも教えていないその秘密の場所へ、晋作を連れていった。その理由を、訝しく思う晋作に百香は告げる。「(晋作は)悪い人じゃなさそうだし」「それに来年の今頃にはここにいないでしょ?」と小さく笑いながら。
このセリフを聞いて、わたしは胸が締め付けられるのを感じた。晋作にとって宇田濱町は愛しい第二の故郷になりつつある。しかし百香にとっては、今もなお晋作は「都会の人」。ただ風のように流れ着いただけで、いつかはいなくなるものだと思っている。この認識の差が、互いに意識し合いながらも埋まらない二人の距離感を示しているようで切なかった。
この移住する側と移住される側の関係性は、地方移住にいつもついて回るものなのだと思う。外からやってきた人間は、その土地が合わなければ簡単に離れることができてしまう。しかしその土地に土着して生きる人々にとっては、故郷を離れることは容易いことではない。そして、外からやってきては離れていく「都会の人」を、ただ眺めている。百香の「来年の今頃にはここにいないでしょ?」というセリフからは、土着して生きる者の切ない目線が強く感じられた。
この映画で、晋作は自らの将来の選択を迫られる。東京に戻り、出世コースを歩むか?宇田濱に残り百香と生きるか?
その町に住み、町とともに生きるということ。ひととのつながりが希薄になった現代の社会で、何を幸せとして選ぶのか。晋作と百香の選択をぜひ見届けてほしい。
映画「きっと、うまくいく」ネタバレあり
たった数十秒のショート動画が流行る今、3時間近くの映画を見るのは少ししんどい。わたしは今年の大ヒット映画『国宝』ですら「長い」と感じたので、集中力のなさには自信がある。
でも今日見たインド映画『きっと、うまくいく』は、171分あるにもかかわらずそこまで長いと感じなかった。笑ったり泣いたりしていたら終わっていた、という感じ。意識の片隅にある「長いな」という感覚を、ストーリーの面白さが塗りつぶしていく。
飽きずに見ることができた理由のひとつは、主人公3人組の軽快なトークにあったと思う。自由人ながら確固たる意志を持つランチョー、工学を学びながらも動物写真家になりたいファルハーン、気が弱く神頼みを続けている苦学生のラージュー。性格は異なりながらも波長の合う3人。彼らのやらかすくだらない悪戯や、親友にだからこそ言えるジョークが笑えて、少しも目を離せない。
わたしはこの映画において、3人の関係性にとりわけ惹かれた。馬鹿騒ぎばかりしている3人だけれど、ちゃっかり首席を取り続けるランチョーに対して、ファルハーンとラージューの成績はいつもドベ。3人は関係性としては対等に見えるのだけれど、圧倒的に人格的にも能力的にも上を行っているのがランチョーなのだ。
だからといってランチョーに傲慢さはなく、真っ直ぐに2人を好きでいる。将来について悩むファルハーンとラージューに真摯に向き合うランチョーは、2人をいつも明るい方向へと導いていく。はじめはランチョーに劣等感を抱いていた2人も、次第にそれも忘れるほどの信頼関係を築いていく。
けれどこの映画の始めに、その信頼関係が破綻していることを視聴者は知っている。大学卒業の日、ランチョーは親友に何も語ることなく姿を消したのだ。10年後にそのランチョーが見つかった、と2人が連絡を受けるところから映画は始まる。作中ではそこまで大きくは語られていないけれど、何の説明もなく姿を消されたことは、2人にとって相当なショックだっただろう。これまで自分たちはランチョーを信頼し、自らの悩みを相談し、救われてきたのに、ランチョーは自らの事情を何も語らなかった。「それでは、これまでの信頼関係は嘘だったのか?」失踪している10年間、誰もわからなかったランチョーの本心を知るために、2人は走る。
実際のところ、ランチョーが何も語らず姿を消したのは、自分がとある人物の身代わりとなって学位を取得したからだった。そのことを周囲に話してしまえば、身代わりとなった人物の学位が偽物であることがバレてしまう。だからランチョーは親友にも愛する彼女にも、真実を伝えずに消えることしかできなかった。わたしとしては、親友や恋人にくらい話してしまえばよかったのに、とも思うけれど、それをしないところがランチョーの正しさであり誠実さなのだろう。
映画のラストでランチョーと再会した二人は、何も言わず消えた彼をビンタし、蹴りを入れ、ボコボコにする。それを甘んじて受け入れるランチョー。3人の絆が元通りになる瞬間だった。10年の時があっても、言葉を交わさなくても、また昔のように笑い合えるのは、本当に絆があったからなんだろう。
くだらなさと、優しさと、愛と。笑って泣ける、「楽しい」という言葉が似合う映画だった。
映画「湯を沸かすほどの熱い愛」
もしも今日、「あなたの余命は2ヶ月です」。そう宣告されたとしたら?わたしたちは残された時間をどう生きるだろう。「あと少しを懸命に生きよう」なんて、きっと簡単には思えない。もしかしたら途方に暮れたまま立ち止まって、頼りない命の残火を眺めることしかできないかもしれない。
映画「湯を沸かすほどの熱い愛」では、余命を宣告された女性が生きる、2ヶ月間の日々が描かれる。
あらすじ
1年前、夫が突然家出をし、家族経営の銭湯、幸の湯は休業状態。でも、母の双葉は持ち前の明るさと強さでパートをしながら、娘を育てている。ところがある日、がんで余命2か月を宣告される。“絶対にやっておくべき事”を決めた双葉は、家出中の夫を連れ帰って銭湯を再開させ、気が優しすぎる娘を独り立ちさせようと奮闘する。
(movie walker pressより引用)
※ここからネタバレ
この物語のすごいのは、血のつながっていない家族が、血のつながりを超えた絆で結ばれていくところだと思う。母親と父親、そして娘が2人。物語が進むにつれて明かされるのだけれど、母と娘はどちらも血縁関係にはない。
妹の鮎子は、父の一浩が愛人の子どもとして連れてきた。その鮎子を、双葉はいとも簡単に家族として受け入れる。鮎子は本当の母のもとに帰ろうとして家を抜け出すのだけれど、結局真の母が鮎子を迎えに来ることはなかった。かつて母と暮らした部屋の前で立ちすくみ、漏らしてしまう鮎子を、双葉は迷うことなく抱きしめる。
杉咲花演じる娘の安澄は、物語の終盤、実は双葉と血のつながっていないことが明かされる。安澄は父が双葉と出会う前、別の女性との間に作った子供だった。けれど双葉は、安澄を生まれたときから実の子のように育ててきた。だからこそ、安澄が真実を知るシーンは涙なしには見れない。愛する母、愛してくれた母が、本当の母ではないということ。双葉は安澄に、実の母と向き合うように告げる。そこで安澄は、産みの母が耳の聞こえないことを知るのだけれど、そのときはじめて、「いつか役立つから」と手話を習わされた本当の理由を知るのだった。
夫の一浩は弱くだらしのない人間だ。家庭の外で女を作り、双葉との約束も守らない。そんな夫に双葉は弱さを見せることもなく、何かを求めることもなく、明るく振る舞い続ける。けれでも強く明るかった双葉が、病に冒され弱っていく姿は、少しづつ一浩の心を変えていく。死にゆく妻に、最後にできることは何か。一浩が「俺がみんなを支えるから安心して」と叫んだとき、双葉は「もう大丈夫だ」と思ったに違いない。
双葉は無償の愛を持った女性だ。他にもあらゆるシーンで、双葉の愛がひとの心を動かしていく。亡くなったあとも、残されたひとびとのなかで双葉の愛が生き続けていることがわかる。
「あなたの余命は残り2ヶ月です」。例えばそう宣告されたとして、わたしたちにできることは、ありったけの愛を愛するひとたちに残すことなのかもしれない。そうすれば残されたひとたちは、その愛を糧にして、ほんの少しだけ生きやすくなるかもしれないから。死んだあと思い出されるとき、そこには愛があったらいい。

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